トモエブログ

きぐるみハードコア

ラ・ラ・ランド実質プリリズ(DMF)暴論

 先日の事。

 菱田かんとくが劇場版プリキュア実質プリリズ暴論に加え、ラ・ラ・ランド実質プリリズ暴論を繰り出していました。

 

 

 

 RL放送当時は、割とマジで菱田かんとくのインターネットでの振る舞いについて勘弁してくれよと思っていたのですが、ある時期から「もう好きにやってくれ!どんどんやってくれ」と思うようになりました。

  けれど最近ではアイドル監督として有名になった事もあり、別名義で嬉々としてオカマをしたりしている事を除いて、青葉譲アカウントでは大人しくなってしまったという印象が強かったのですが、久々に!やったぞ!調子に乗った菱田かんとくのツイートっ!フーッ!

 

 とはいえ、ぼくも、ラ・ラ・ランドは実質プリリズというか、実質プリティーシリーズDMFだと思うんですよ。ラ・ラ・ランドを観た時に最初に思ったのが「これは、阿世知欽太郎の映画だ!!」でした。

 

 そもそもぼく、ラ・ラ・ランドが「明るく楽しい(ちょっとビターな)ミュージカル映画」だと認識されている所……というか、良くも悪くも「軽い映画」とみなされている所が許せないと思っている所があります。さっき髪を切りに行った美容院で読んだ雑誌にもそんなような事が書いてありました。でもぼく、ラ・ラ・ランドは、セッション以上に重いエゴみ映画だと思っています。

 ぼく、ラ・ラ・ランドという映画は、基本的に歪んだ映画だと思っています。

 ミュージカル映画を謳っている割に、劇中のミュージカルシーンはミュージカル映画のミュージカルシーンというより、「ミュージカル映画を演じている」ような違和感というものは確かにありますし、登場人物の映画観音楽観や、夢を追い求める姿も歪んでいます。

 けれど、そんな歪んだ価値観を持った歪んだ登場人物を通して、それでもなお、夢を追い求めろと主張するのがラ・ラ・ランドという映画なんですよ。

 

 プリティーシリーズDMFというアニメには、阿世知欽太郎という、美しくも歪んだ価値観を持った男が出てきます。

 プリティーシリーズシリーズにおいて、プリズムショーには、競い合い、高みを目指す競技的な面と、観客を楽しませるエンターテイメント的な面の、二つの面が描かれています。

その中の、エンターテイメント的側面のみに価値を見出す阿世知欽太郎のプリズムショー観は、まっすぐに夢を追い求めていた若い頃から一貫して歪んではいます。

若い頃の阿世知欽太郎がプリズムショーの中に可能性を見出し、そしてグレイトフルシンフォニアという形で完成を目指した「最高のエンターテイメント」という夢を、他人の手によって実現させられるという残酷な救済が行われるのが、プリティーリズムDMFというアニメです。

 そしてぼくはラ・ラ・ランドの歪んだ登場人物に、「夢に燃えた若い頃の阿世知欽太郎」を見たんです。

 ラ・ラ・ランドは、阿世知欽太郎のように、美しくも歪んだ価値観を持った夢追い人を真冬のセーヌ川に突き落とす形で肯定する映画なんですよ。

 

 それとこれは個人的な話なんですが、ラ・ラ・ランドを彼女と観に行った後、セッションは気に入ったけれどラ・ラ・ランドはピンと来なかった彼女とラ・ラ・ランドについて語り合った中で、自分には夢がないと語る彼女から、

「(ぼくは)夢や理想だけは高いけど、足元に地が付いていないからね」

 というような事を言われました。ぼくは、ケイからの阿世知欽太郎の評価かよ! と思いました。ぼく、プリティーリズムDMFはぼくのために作られたと思っていますけど、ラ・ラ・ランドという映画もぼくのために作られたと思っています。

 

 阿世知欽太郎絡みを除いても、終盤の「あったかもしれない甘美な可能性を見せつけられる映像」も、天宮りずむちゃんのプリズムアクトそのもの(あるいは、阿世知欽太郎が幻視した夢の映像)ですし、そもそも主人公の片割れの名前がミアですからね。

 ラ・ラ・ランドは実質プリティーリズムDMFですよ。

 

<了>