※当記事には、動物蔑視的表現が含まれています。
ぼくは、動物が苦手です。
今は、比較的マシになってきた方ではありますが、昔は動物系の番組を観る事も嫌でしたし、動物園に行く事も嫌でした。動物全般の事は「畜生」と呼んでいますし、今も呼んでいます。
今では、動物系のドキュメンタリー番組も観たりしますし、動物園にも行くようになりました。以前住んでいた場所では、近所の公園に住み着いている野良猫を見がてら散歩をする、という事が生活の一部でもありました。
それと、動物の「形」をしたものは好きです。家には動物のぬいぐるみ等が多くありますし、最近、客先で子犬仕様のティッシュボックスを貰ったのですが、今使っている無機質なティッシュを使い切って、そのティッシュを早く使いたくてうずうずしちえます。
それでも、動物に触れる、という事はとても嫌で、なんというか、動物というものは非常に穢れたもので、そんなものに触れたりしたくない、という気持ちがとても強いです。
ましてや、一緒に生活するなんて……。
二日前。あさのあつこ「バッテリー」をAudibleで聴いていて、母親が子犬を拾ってきて、弟がそれを喜んで……といった場面などは、絶対嫌~~!と思いました。
とは思いながらも、ぼくは、猫と一緒に生活している女性声優さんの動画などを喜んで観ています。
結局のところは、動物全般の存在自体が苦手なのではなく、「自分自身の身体と切り離されている場所」に居る動物の事は、別に苦手でもなんでもないというところです。
ぼくも、動物全般の存在自体が苦手だった昔から、水族館は好きだった事も、その感覚と関係しているように感じられます。水槽の中の生き物は、絶対的に自分自身と隔絶されている、ので。
自分自身の身体と生き物との「隔絶」が許容出来るしきい値が下がっていった事が、ぼくが「動物が以前よりも苦手ではなくなった」という状態に繋がっているように感じられます。
テレビモニターや、動物園の檻。あるいは、道端でで歩いている猫との間の数メートルの距離といった小さな隔絶。
そういったものがありさえすれば、動物の事は、別に苦手ではないという実感があります。
逆に言えば、動物に触れる、という事は以前と変わらずにおぞましい事のように感じられるという事です。
2/17。仕事中。
訪問先でサインを貰うため、小さな事務所の扉を開けると、そこには小さな犬が居ました。
元々の囲いから飛び跳ねてしまったようで、ぴょんぴょんと跳ねながら、ぼくの方へ寄ってきます。
触れないでくれよ、と一歩二歩と下がっていきましたが、両前足が、ぼくの両太もものあたりにかかりました。
その重さを感じながら、ぼくは、
「畜生」
と、心の中で叫びました。
畜生に触れられてしまった。
愛想笑いを崩さないままにサインを貰い、車に乗りこみ、運転しながら、ひどく嫌な気持ちになりました。
今すぐに、このスボンを洗濯機に突っ込んでしまいたいと強く感じ、その日は、実際に帰宅して、下着以外のものを全て洗濯機に放り込むまで、なんとなく、自分の下半身全体が穢れてしまったような心地がしていました。
そんなわけで、やっぱり、動物に触れるのは嫌だな、という再認識をしたという話でした。
それでも、馬に乗る体験はしてみたいな、と思っているのは、矛盾でもあります。
(おわり)