トモエブログ

きぐるみハードコア

ぼくはフィクション上の猫虐待描写が好きなのか?考

・ぼくはフィクション上の猫虐待描写が好きなのですが

ぼくはフィクション上の猫虐待描写が好きなので、アニメ ニンジャラの1話で、猫が間違えて実験機に入れられるシーンでドキッとしました(実際は、大した虐・シーンではなかったのですが)。

そんな気持ちの延長線上で、今文章を書いています。

 

ぼくは、猫の事は可愛いので好きですし、現実の猫が酷い目に遭う事については嫌だなと思います。

けれど、先にも述べた通り、ぼくはフィクション上で猫が虐待される描写が好きです。

 

個人的なお気に入りのフィクション猫虐待描写は、辻村深月せんせいの「オーダーメイド殺人クラブ」における猫描写で、また、ここ最近で一番ドキドキしたのは、メガトン級ムサシの4話「猫作戦」でした(作戦のために使われた猫が理不尽かつ可哀想に死んでしまうシーンは、観ていて涎がだらだら出てきました)。

 

先述の通り、ぼくはフィクション上の猫虐待描写が好きなのですが、はたして、ぼくは本当にフィクション上の猫虐待描写が好きなのだろうか、という事も最近思っています。

 

・本当に、フィクション上の猫虐待描写が好きなのか?

現実における猫の虐待行為に対して、「ドキッ」としたような気分は抱く事はありませんし、そのような事件が起きると、嫌だなという気分になりますし、匿名インターネットで猫虐待画像スパムや動画URLを踏んだりするのも嫌な気分になります。

 

以前友人から、「全くの善意」で、「酷い状態になっている猫を発見して保護する動画」を観せられた事がありますが、その時にも、どう考えてもこれ、アクセス稼ぎのために虐待動画じゃねーか!と思い、憤りを覚えたりもしました(その場では口にしませんでしたが)。

 

それと、そもそもペットショップで猫が売られていたりするのもどうかと思いますし、猫繁殖業者は邪悪だと思っていますし、野良猫無責任餌ヤリ人間についても「てめー!」という気持ちを持っています。

 

けれどぼくは、露悪的な猫虐待「ネタ」はニヤリと面白がってしまうという部分があります。

たとえ、それが現実の事件を元にしたものであっても。

 

これが、「本当に、フィクション上の猫虐待描写が好きなのか?」という疑念を抱いた点の1つ目の点です。

 

2つ目のきっかけは、車の運転中、猫の轢死体を見かけた時、フィクション上の猫虐待描写を見た時と同じようにドキッとしている自分自身に気づいた時です。

 

・猫の死で感じる嬉しさの由来について

ぼくは、いわゆるマスコット虐待系の創作が好きなのですが、猫虐待フィクションを見た時に感じる嬉しさ、というものは、マスコット虐待創作を見るときの楽しさとは、また違ったものであるという感覚があります。

ぼくは、いわゆるリョナといいますか、女の子が可哀想なメに遭ったり、無残に死んでしまうような創作が好きなのですが、感覚としては、マスコット虐待というよりは、こちらの方が近いような気がするな、と思いました。

 

以前、匿名インターネットで見かけて以来、思考の中にトゲのように刺さっている(といっても詳細は思い出せない)書き込みがあります。

ぼくは、インターネット上で女性蔑視的な書き込みを見るのが嫌いで、そのために匿名インターネットを閲覧する時にはNG設定もバリ盛りにしています(じゃあ匿名インターネットなんて見るなよ、というハナシですが)。

それでも、というより、それが故か、印象に残っているのが、確か猫に関連したスレッドだったと思うのですが、「猫と若い女は共に可愛いという理由で社会から守られてイージーモードで生きていける所が似ているから叩きたい」という旨の呪詛のような書き込みでした。

嫌だな、と思いつつも、ぼくの思考の中にトゲのように刺さって(といっても詳細は思い出せない)いて、ぼくが「一体どうしてフィクション上の猫虐待描写が好きなのか」という事を現実の猫の轢死体を見た後に考えていた時にフッと頭に浮かんだのも、その書き込みの事でした。

 

ぼくが、フォクション上の女の子が猟奇なメにあって嬉しい気持ちと、フィクション上の猫が虐待されて嬉しい気持ちとは、同質のものではないか、と、ハッとする気がしてきました。

つまり、ぼくは純粋に被猟奇対象が猟奇的事象に遭っている事自体が好きなのではなく、その中に「社会」というフィルタが一つ噛んでいるから好きのではないか、という疑惑です。

これについては、「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」というのが、正直な所ですが、猫虐待については「猟奇的現象」そのものよりも「社会フィルタ」の部分が大きいという自覚があります(猫の虐待絵等を、文脈等から切り離した「残酷な被写体そのもの」として消費する事は無いので)。

 

言ってしまえば、「社会から可愛がられている存在が、グロテスクになってしまっている状況を見るのが嬉しい」という感情が、ぼくが「フィクション上の猫の死」という事象と出会った時に抱く感情に近いと思います。

「猫」という、その可愛さ故に、あたかも愛される事が当然として人間社会から許容されている存在が、惨たらしく死んでしまう姿を見る、という部分に、この「ドキッ」感というか、ぼくの中で生じる嬉しさを感じる事自体は確からしいと感じます。

 

という事を、現実の猫の轢死体を見て嬉しい気持ちになった後に考えたのですが、そうなると当然後に浮かんでくるのが、「ぼくは本当に、『フィクション上の』猫虐待描写が好きなのか」という疑問です。

 

これについては、考えてみましたが、やはり猫が惨たらしく死んでしまうという事象はとても良くない事であって、現実に起こるのはとても嫌だ、という結論になりました。

 

では、どうして運転中に見た猫の轢死体を見て「嬉しい」と感じたのでしょうか。

 

・「事故動画」というフィルタ??

これについては、ぼくの個人的な認知の歪みのようなものが原因であったように思います。

ぼくは、人が亡くなる現場を映した事故動画を観るのが好きなのですが、人間が死ぬ事故のニュースには胸を痛めています(本当かよ?)そんな二律背反な気持ち(本当に二律背反かよ?)に折り合いをつけているのは、そういった悲惨な事故動画を、モニターというフィルタを通して、フィクション的に見ている事に由来しているかもしれません(本当に?)。

この辺り、自分自身の捉え方や感じ方に自身が持てないでいます。

自身が持てないどころか、ここで言おうとしているのが、「『猫の轢死を現実で見た』という現象を『事故動画を観た時』と同じようにフィクション的に認識してしまったから、現実の猫の死を嬉しがってしまった」という事なので、「フィクション上の」というカッコ書きの部分について自身が持てないどころではありません(自身が持てない「」の部分はそこだけなのか、という疑惑もあります)。

 

話は変わりますが、キラッとプリ☆チャン最終話での「猫を電子レンジに」描写は、ぼくの中の「露悪描写アレルギー」が強く出て、普通に「ああぁっ?!」と思いました。

ぼくは、「露悪描写」が好きという気持ちを持っていますが、「露悪描写をする奴」の事はだいたい嫌いという気持ちになる事が多いので。

 

<話がまとまらないので、おわり>

 

・追記

「露悪描写をする奴」、という話で言えば、ぼくはMNNのYouTube公式が作っている「マスクにゃんニュース」という動画を毎回見ているのですが、動画の最後に紹介される視聴者投稿型の猫画像コーナーで、「カールおじさん」という名前の猫が紹介されているのを見た時、これは完全に露悪インターネット民が、「カールおじさん」というハンドルネームで有名な猫虐待犯の名前を使って悪ふざけをしているやつだ!と思い、「はぁ~~っ? いや、これはマジで駄目でしょ……!」と一通り憤ってみせていたら、一緒に動画を観ていた江衛子さん(配偶者)から、「いや、普通にこの猫の口元がカールおじさんみたいな模様になっているからこういう名前なんじゃないの……?」と指摘され、確認したら確かにそのようだったので、ぼくの勘違いだった事が分かって良かった、という事が以前ありました。

マスクにゃんニュースでは、マスクにゃんが毎回最後に面白くないダジャレを言うのが好きで、ぼくは毎回それを観ながら、「これは……保健所行きです!(判定)」と言っています。

 

<おわり>