トモエブログ

きぐるみハードコア

VRSNSは「メタ」か?という話

少し前のブログにも書きましたが、少し前から、VRChatを始めました(id:TOMOE_KIXX)。

 

 

 

tomoekixx.hatenablog.com

 

上記のブログにも書いたのですが、ぼくは元々、VRSNSを「メタバース」と呼称する事に対して忌避感を抱いていました。

その理由としては、

一企業が、フィクション上のものとして使われたワードを後乗りで専有するような形になっているのはどうなんだ」

「フェイスブック時代に、なんとなく持っておくか~~程度の気持ちで買った株が、メタ・ショック後にガン下がりした事による個人的な恨み(おい!ザッカーバーグ!)」

といったものだったのですが、いざ、実際にVRChatをプレイするようになってみると、改めて、「VRSNS、「メタ」じゃなくないか……?!」という気持ちを強く抱くようになったので、改めて、「メタバース」呼称に対する個人的な忌避感が強くなりました。

 

どういう事かというと、インターネット上の様々なサービスの中で、VRChat(VRSNS)という場は、文字通りの「実質的な現実」寄りの場であって、この場所のどこが「メタ」なんだ、という事です。

VRChatでは、空間を自由に移動出来て、姿形もある好きに変えられて、物理的現実世界ではありえない事も行えもします。

しかしながら、あくまでVRChatという場は現実の延長線上の場であり、どうしようもなく此岸的な場である、という感覚が強くあります。

仮想の空間だとしても、自分自身の身体を使ってその場所に立ち、その空間に居る人と、自分自身の身体(発声・動作)を使ってコミュニケーションを取る、という行為をしていると、特に、それ(此岸性)を強く感じます。

そういった、自分自身の身体性だったり、イマ・ココ性を意識させられる此岸性こそがVRChatの面白さだと感じており、これは、インターネット的なものには無い面白さだな、とも感じるわけです。

森博嗣せんせいのWWシリーズで、バーチャルが現実に近づいてきたというより、現実の現実感が希薄になった結果としてバーチャルに近づいてきた、というような描写があったように記憶していますが(Audibleで作品に触れたのですぐに確認出来ず)、ぼく自身がVRChatに感じる「現実感」も、それに近いものがあると感じます。

ぼくは元々、現実に対する現実感が薄く、現実での物事に対してリアリティをあまり感じないまま生活をしています。現実よりもフィクションでの出来事の方がリアリティを感じますし、現実よりも、インターネットでの出来事の方が感情を強く動かされます。だからこそ、例え、一見した限りでは現実的には見えないようなVRChatの世界を、「リアル」だと感じるのかもしれません。

そういった事を意識して以来、VRChatにログインする際には、「潜る」という感覚が伴うようになりました。インターネットの地下に潜るような感覚です。

そしてインターネットで言えば、ウン億人が日常的に使っている、例えばTwitterなんかのサービスの方が、よっぽど「メタ(超越)」的なサービスだろうという思いがあります。

自由にアバターを使用出来て、虚構の人格の形成も簡単に出来て、虚構の出来事をでっちあげられて、虚実入り交じったようなpostがあっという間に拡散されて、各々は各々が信じられるファンタジックな現実をチェリーピッキング&エコチェンクラスター形成可能な、まさに超現実空間です。自分自身の創作物を投稿したり、普通に日常を呟いたり、日々のTL上のお題に対していっちょ噛みしたり、あるいは、ナニカ悪い勢力の悪事を糾弾する正義の闘志になるのも自由な、なりたいがまま、なんでもできる!なんでもなれる!なりたい自分になる事が出来る空間でもあります。

(ぼくは、「メタバース」の元ネタであるスノウ・クラッシュを読んでいないので、エアプレイ的な言及になってしまうのですが)スノウ・クラッシュが発刊された1992年の電脳環境ならともかく、そんな超現実空間が跋扈している2020年代の世界で、VRSNSを「メタバース」と呼称するのはどうなんだ?

というハナシでした。

 

(おわり)