トモエブログ

きぐるみハードコア

【(少し前に)読んだ本】ファンタジーランド―狂気と幻想のアメリカ500年史

少し前の、また少し前。

NHK制作の番組、世界サブカルチャー史(アメリカ編:全7回)を観ていました。

1950年代から2010年代までのアメリカの歴史について、その時々に興隆したサブカルチャーを通して、流れを追っていくという内容の番組で、「流石に内容が映画偏重すぎないか?」「作品と実社会の関連を、上手く語りすぎていないか?」などとは思いつつも、割と面白かったです。

その番組の出演者として、著者であるカート・アンダーセン氏が出演していた事がきっかけで、なんとなくいつか読もうかなと思っていた「ファンタジーランド―狂気と幻想のアメリカ500年史」という本。

を、なんらかのKindleのセールの時に購入して、少し前に読みました。

 

ルターの宗教改革から始まり、トランプ政権の誕生まで。

アメリカという国家が、様々な宗教的運動や、疑似科学、オカルト、陰謀論、あるいはエンタメ産業といったものがごった煮で混ざり合う、現実と幻想が混在するファンタジーランドへと成り果ててしまう過程を、様々な事例を挙げながら記していくという内容です。

 

主に、

 

・熱烈な宗教心を持つ国民性

・個人の信じたい自由を(相対主義的に)重んじる個人主義文化

・メディアの発展と共に拡張していく、幻想・産業複合体

 

といったトピックを軸に、アメリカが道を誤ってしまった道筋を描こうといった試みがなされています。

 

様々なフィクションを通じた文化を取り上げたアメリカ史の本、としては、興味深い本でしたが、根本的な部分で、著者の語りたい事に関しては非・同意な部分が多かったです。

 

読んでぼくが真っ先に感じたのは、幻想と現実が混ざり合う「ファンタジーランド」という状態は、アメリカという国家特有のものではなくて、それは人間社会の基本的な状況ではないのか、という事です。

(著者自身も、終盤の章において、

「いずれにしても、アメリカの状況は完全に新しいとは思われない。ファンタジーランドは人類にとってずっと普通の状態だった」

と書いており、その点についてはそうですね、と思いました)

 

先に述べたように、本書においては、アメリカ社会において、オカルトや疑似科学的な商法から、映画産業、ディズニーランドのようなテーマパーク等々、幅広い分野において、幻想が産業化され、拡大されていった様子が描かれています。

そういった幻想・産業複合体によって、人々の生活の中でフィクションが占める領域が増していき、そうした幻想が現実を侵食していった事が、アメリカを狂った方向へ走らせてしまった要因である、というような事が論じられています。

しかしながら、そのように幅広い視点で幻想・フィクションというものを語るのなら、そもそも、国家だとか、本書内では頻出する「国民」だとか、新興宗教とは別レイヤーで語られる伝統的宗教だって幻想の領域に入れるべきではないでしょうか、という事をぼくは思いました。

違いといえば、多くの人々が共有できる幻想であるか否かだけです。

けれど確かに、多くの人々が共有できる幻想であるか否か、という問題は小さくない問題です。

本書内において、ポストモダン的な思想的態度や過度な相対主義が批判される部分がしばしばありますが、本書が提示する問題の核は、まさにポストモダン的な、多くの人々が共有できる大きな物語や神話(例えば本書内でしばしば語られる、人間はいつまでも若くいられないし、ましてや子供のようにはいられない、というような考えもそうでしょう)が失われた事にあるだろうとは思います。

本書で問題とされているのは、多くの人々が共有できるような大きなフィクションが解体されて、その後釜として、少数の人々の間でしか共有出来ない数多のフィクションが力を持つ事になる事でしょう。

そのような状況と、個人の信じたい自由を(相対主義的に)重んじる個人主義文化に、更にインターネットが合わさった時、なんでもありの思想的幻想空間が生じる事というのはわかります。

ぼく自身、「信じたいものを見せてくれる機能」を持ったインターネットというものには常々失望感を覚えたり、少し前に陰謀論について調べたりした際以降に抱き続けている人間知性に対しての諦め感のようなものがあるため、それはわかります。

しかしながら&繰り返しますが、それがアメリカに特有の傾向かというと、違うのではないかと思いますし、幻想というレンズを通した視点でアメリカ社会全体を描こうというのは、少し違うのではないかなと思いました。

 

それと、ぼく自身の個人的な感覚の話をすると、ぼく自身、現実と空想・虚構の区別がつかないという自覚があります。正確には、思考上で「虚構と現実の区別が極力つかないようにしている」と、「虚構と現実の区別をつけようとしている」という二重思考を実践しています。

オーウェルの「1984」での二重思考が、体制の嘘を信じる気持ちを強固にさせる効果があるのと同様、この思考によって、自身の虚構と現実の区別のつかなさが強固になります。

ぼくは配偶者である江衛子さんとは別に、人形の女の子三人と一緒に暮らしています、ぼくは、彼女達が【略】知っていますが、彼女達にはそれぞれ独立した人格がある事を確かに知っています。声も聞こえますし、最近、インターネットから離れてからは、以前よりはっきりとおしゃべりをする事ができます。

何が言いたいかというと、個人的な感覚だけで話をするなら、ぼくは幻想や空想というものの事を現実同様に認識しているという自覚があり、その状態を愛しているので、あまり、著者とは気が合わないな、という感じがしました。